逆境に乗ってく

 気付けば年が変わっていて、仕事で日付を入力する時にまだ「2014」と打ってしまうのだけど、それもあと数か月もしたら自然と「2015」と打てるようになってるんだろう。

 

 いつからか年賀状を書かなくなって、今年は返信で3枚に収まった。助かったぜ。年賀状という風習やあけおめことよろの風習は、なくなっていいと思っている。私にとっては12月31日から1月1日になることも1月31日から2月1日になることもそんなに大差ないことなので。ただ一瞬一瞬が過ぎていくことの繰り返しなので。

 

 最近はずっとばたばたしていて、何か書くこともできずただただ睡眠不足の日が続いていたのだけど、今日ふつふつ湧いてきたので書いてみる。

 

 世の中には残念ながら理不尽なことが溢れている。大きなことから小さなことまで、せこいこすいことをする人間が溢れている。例えば本当は正しいことを、権力側が利権を守るために陥れること。そしてその真実を知ろうとしない人。知っても知らないふりをする人。それは長いものには巻かれろ的な、思考停止的な思考。自己保身をはかって、平気で人を裏切ったり陥れたりする行動。自分さえよければそれでいいっていう姿勢。

 

 象徴的(?)な単語でいうと、ガリレオ・ガリレイとか魔女狩りとか冤罪とかそんなこと。我ながら、曲がったことや調子のいいやつっていうのが嫌いで、そういう人間を目の当たりにするたびに、なんかもう自分のことじゃなくても腹の中がぐるぐるして喉の奥がぐぐっと締まって、拳を握っても自分の握力だけじゃ足らないくらいのエネルギーが身体から出ていくさまを、小さい頃からよく感じていたのだけど。

 

 これは当事者になると本当に身に染みてわかること。理不尽な仕打ちの悔しさ。真実と違うことを真実であるかのように周りに理解され、近くに理解者のいない状況。ほとんど大多数の人間から否定される状況。最悪攻撃される状況。

 自分のモットーで「転んだ痛みは転んだ人にしかわからない」っていうのがあるのだけど、実際に自分がされることと、されるところを想像することは、天と地以上の差があると思っている。もちろん想像力がある人はいるけど、やっぱり違う。その意味で、私がもし子育てをするのであれば(今生はしない予定)、言って理解ができない子には経験を通して理解させるのがその子のためだという方針で教育をすると思う。これは余談だけど。

 

 さて、そんな理不尽な状況に、最初から積極的に自己保身をはかる人間もいれば、当然ながら辛いと思いながらも仕方なく負ける人間もいる。本意じゃない結果を、自分の意思として選択せざるをえない人間もいる。色々なものを代償にとられて、断腸の思いで選択する人間もいる。象徴的な単語でいうと、踏絵とか。

 

 積極的自己保身の人も、消極的自己保身の人も、別に責めないけど。それぞれが、大事に思うことは違う。色んな事情があるし。守りたいと思うものが違うんだろうけど。

 

 たとえばフランスで襲撃されて殺された(と言われている)編集長は、「自分には妻も子もいないから怖くない」的なことを言ってたらしいけど、それは自分にもよくわかる感覚。これは2説あって、矛盾しているけどどちらも正しいなと思う理論で、①守るものがないから強くなれる説 ②守るものがあるから強くなれる説 これどっちも正しいけど、強さのニュアンスというか、強さの発揮される場面が違うな、と今これ書いてて思った。これも余談。

 

 ただ私にとって、人生で最も大事なことは「信念」で、これは中3の頃から変わってない。「理想」とか「理念」とか、なんかこう「かくあるべき」みたいなものなんだろうけど、苦しい状況が嫌だからって、それを蔑ろにすることはしたくない。わたしはきっと踏絵を踏まない。いやその状況になったらわかんないけど。今は踏みたくないと思ってるし、踏んでない。

 

 逆境は、自分の器を一気に広げてくれる飛躍の機会。一見酷いと思える人間は、自分に試練を与えてくれる貴重な恩人。このビッグウェーブに乗らんでなんとする。

 

 お前いったい何したの?と思われる状況ですけど、詳細は当然書けない、けど思いのたけをとりあえず書きたかったので書いた。別にちゅうに病ではないです。

  

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