わたしは小さい頃からずっと「死」を意識している。別に飼っていた生き物が死んだとか(金魚やドジョウはよく死んでいたけど:金魚やドジョウが生き物でないということではなく、ちょっと遠すぎて昔のわたしには共感できなかった)、近しい人の死を間近で見たとかそういうことではないけれど、両親が死んだとこを想像して1人泣いたりすることは小学校低学年の頃からしょっちゅうあった。(ちなみに両親はいまだ健在)
それは中学校で諸行無常を知ってからより強くなって、パッチ・アダムスを知ってから「よりよい生と死」を意識するようになった。大人になって般若心経を知ったりヨガ哲学を知ったりして、もっともっと向き合うようになった気がする。別に特定の宗教を実践しているわけではないけれど、やっぱり仏教的な価値観はすごく自分に合うなと感じている。
いつか必ず自分も死ぬ。いつかというか、明日かもしれない。今これを書いてる数秒後かもしれない。でもいつか必ず、息が止まって、熱がなくなっていって、この身体がただの肉の塊に日が来る。絶対。この世に「絶対」なんてものは存在しないと思ってる自分でも、これだけだけは絶対そうだと言える。
それがまだとても怖い。怖い理由は、痛みとか苦しみに対する恐怖。そして、「死ぬ感覚」がわからないことが一番大きいのだと思うけど。家族や友人と、そんなに縁が深くない自分ですらこんなに怖いと感じているのだから、すごく大切だとか深く愛する人のような「離れがたい人」がいる人なんて、その苦しみたるや、大変だろうなーと思う(他人事で恐縮ですが)。
でも怖いけど、意識していない人よりも覚悟はしやすいと思う。切腹はできないけど、「散り際」は潔く美しくいたいっていう考えがある私は、やっぱり過去世に武士だった時があると思うんだよね(過去世をみてもらった時に、日本で武家の出だと言われたことがある)。もちろん、本当に「死」に直面した時に自分がどうなるかなんて想像できないし、あがいてしまうのかもしれないけど。
死を意識すると、きっと価値観は変わるし決断も変わる。決断が変わるというのは選択が変わるということで、選択が変われば人生は変わっていく。
だから、とにかく多くの人に、「自分の死」を意識してほしいなーと他人事ながらも思う。
なんてことを、この↓本を読んで改めて思ったので書いてみた。会社の1つ上の女の先輩の、学生時代の友人が今(31歳)大腸がんで、ステージもかなり進んでいるみたいでかなり深刻な状態なんだけど、その友人の主治医チームの1人の医師が書いた本。
それだけ昔から死を意識している自分なので、内容としては特に、という感じだったけど、文章がうまくてとても読みやすいし、いいお人柄が伝わってくる本だった。
幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと 若き外科医が見つめた「いのち」の現場三百六十五日 (幻冬舎新書)
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私は「いつ死んでも後悔しないように生きる」が学生時代からのモットーなのだけど、この医師は「いつ死んでも後悔するように生きる」というのがモットーらしい。いつ死んでも後悔しないのは、本気じゃないからでは、と。
それはそれで、そういう考え方もあるなぁと思ったけど、やっぱり私は「いつ死んでも後悔しないように」生きたい。常に本気で取り組んで、でも途中で(死で)頓挫するようなことになれば、その瞬間、全力で諦めたい。
「諦める」という言葉がとても好きなので。