※1年前に下書き保存した記事の加筆修正後UPです。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃ
結構前に知人が、「SNSでも言いたいことを言えない世の中になってる」ってことをツイートしていて、思春期(というか我々世代だけかな?)に観るTV番組の存在感の大きさとキャッチーさにすげぇな、と思いました。ポイズンって言ってたからさ。15年以上経てもまだ出てくるかそれ、みたいな鉄板感あります。多分私も言う時あります。
言いたいことを言う・言わない(言えない)の議論については、私の中でもここ2年位、なかなかの懸案事項にのぼってます。直近(2016年10月時点)で思い出されるのは、ロースクールの学生が自分の性的指向を友人に暴露されたのち、亡くなった話。
これは、、、/「ゲイだ」とばらされ苦悩の末の死 学生遺族が一橋大と同級生を提訴 https://t.co/j7J1hclIFD @_gl_hf @BuzzFeedJapanより
— tenbin-girl (@tenbingirl) 2016年8月5日
コメントで「単純に振られたことを拡散されることと性的指向を暴露されることは全く違う」という指摘があって、それは確かにと思う。
— tenbin-girl (@tenbingirl) 2016年8月5日
秘密や想いを1人で抱えるのって、人によってはすごく負荷のかかることだから打ち明けたくなるのはわかる。でもそれは相手も同じで、だから(自分は苦しくても)相手のために言わないって選択をすべき時もある。その負荷を自分1人で背負いきれずに相手にも背負わせてしまった結果の悲劇なのかなと。
— tenbin-girl (@tenbingirl) 2016年8月5日
法律を勉強していた頃の遥か彼方の記憶を辿ると民法ってどちらがリスクをとるのか妥当なラインの探り合いだった気がするのだけど、人間関係のもつれは全てそこに集約するのね。あちら立てればこちら立たずをいかにうまく、まさに「折り合い」つけていくかという。。
— tenbin-girl (@tenbingirl) 2016年8月5日
本件で私が感じたのは性的指向云々ではなく、何かしらの想いや秘密(例えば自分を偽らないといけないこととか)それらを自分の内に秘めておくことのしんどさ、そしてそれを伝えることで自分は多少楽になるけど相手にかかる負荷についても考える必要があるってこと。経験者だから語る。
— tenbin-girl (@tenbingirl) 2016年8月5日
もちろん、全てを受け入れてくれる寛容な世界になるのが一番理想だけど。それが整っていないうちは、自分をとるのか、相手をとるのか、はたまた両者の間に新しい関係を構築することを試みるのか、かなりのリスクを背負ってでも。どれかを選択するしかないし、どれが最善かなんて誰にもわからない。
— tenbin-girl (@tenbingirl) 2016年8月5日
読み返して思ったけど、「言いたいことを言う・言わない・言えない」議論については、↑で大体言い尽くしていた。
最適解をさぐるべきだが
結局これが正解とかこうすべきというものはなくて、人と人の関係においては、その場その場で矛と盾を、いかに折り合いつけてやっていくかだよね、、と1年経ってみても相変わらず思います。”最大公約数を求める”とか、”最適解を探る”みたいな、そういう表現が自分にはしっくりくるのだけど。
言えない苦しさ・吐き出すことで救われる事実があるのは当然のことととして、それと同様に、何かを聞かされる相手にかかる負荷、についても考慮する必要があるということ。結局、みんながみんな、相手を慮ることができたらそれが一番いいのですが。
相手を刺すつもりの、明確な悪意から出る発言はいかがなものかと思うけど、単純に自分もとても苦しかったとか、いわゆる想像力不足とか、咄嗟に言ってしまったとか、そういうことってよくある。自分が苦しかったり、悪意がなければ許されるのかと言ったらそうではないけど、少なくとも刑事法では「咄嗟の犯行(計画性の欠如?)」って情状酌量の1つになっていた気がします。そもそも”許す・許されない”ってなんだ?みたいなところもあるんだけど話が収拾つかないのでおいておく。
エゴとエゴのシーソーゲーム
これは自分が何かしら抱える秘密とか想いとか、「伝えるべき相手」「利害のある相手」の存在が前提の話だけでなく、ただ自分の思っていること、別に誰か<告白/批判/懇願・その他諸々をしたい・すべき対象>がいるわけでもない、例えば自分自身について何か思い浮かんだこと、生き方、思想、を表現することも、上記と同様。
例えば、っていうか実際あったことだけど、客観的にみてすごく痩せている女性が(会話から察するにおそらくBMI20以下、体脂肪率も20%以下)、ぽちゃの私(BMI22~23、体脂肪率は伏せるけど20%を大幅に超えていることだけ書いておく)の前で「太った!やばい!痩せたい!体脂肪率20%とかいったら死ぬ!」みたいなことを言うこととかさ。あれこれ女性ならよく見かける事案だね?33年間、何回遭遇したか不明。
もちろん発言している本人に、私に死ねという気持ちは200%ないことはわかっているし、自分で自分が許せないってことあるわけなので、私はそういう彼女の気持ちを尊重したいとは思う。それでも感じるモヤモヤ。
こんなこともある。32~3歳女性ともなると、各々置かれている環境が違いすぎるわけ。結婚願望すらなく永遠のピーターパンでいたい自由気ままな人間もいれば*1、結婚して子供も欲しいと思っている人もいて*2、結婚して子供が欲しいけど仕事との両立で悩みつつまだ子供はいない人、子供ができて「子育てが一番楽しい!」と言う人、更に言えば結婚したけど離婚してそれに負い目を感じている?人など。これ仲良し友人グループ内の話だけど、やはり話題に気を遣う。こういう場面に遭遇する度に「持つものと持たざるもの」の間の反りたつ壁*3、そして仲が良い故の気遣いって、何とも苦しくてどうにからなんかなと思います。
自分の”好き・嫌い・無関心”は、言いたい方は言いたいし、それを聞きたくない人間もいて、でもじゃあどっちがそのリスクを取らなければならないの?という話。タバコを吸いたい人間と吸いたくない人間と、どっちを尊重したらいいの?という話に私は似てると思っているのですが。ここでいうリスクは、自分のエゴを通せないことです。皆エゴを通して生きたいもんね!あれ?末っ子だけかな?
で、それは既述の通り、ケースバイケースで最適解を探る必要があって、結論”お互いさま”てことにしかならないのだろうと思うのですけどね。一方的にどちらかがリスクを取り続ける関係はいつか崩壊するだろうし、例えば特定の誰かに向けてのものではない発信であっても、それが不特定の誰かに与える影響について、慮る必要はあるわけですよきっと。恋だけじゃなく、人間関係はエゴとエゴのシーソーゲームなんだということですよ。
沈黙は金
でも発言の影響を慮ることって、難しいんですよね。私は昔から、なんなら生まれつき、自分の考えを深く考えずに口にしてしまう癖があって、それで人に嫌な思いをさせたり、傷つけてきたりしたらしい(後から聞くことが多いし、きっと聞いてないことも多い...)。もちろん自分も傷ついてきたけれども。そういう、相手を慮ることを自然とできる人はいるんだろうし、努力してできる人もいるのだろうけど、私はかなり気を付けないと、というかかなり気を付けているつもりでも全然できてなかったりする。26歳を過ぎてからでしょうか、多少自制が効くようになったのは、、。
なんてーか、自分の考えをどこまで人に言うかっていうののいい塩梅について、いつだって慎重に考えているつもりなのに自分ごとになると咄嗟に出てしまうのよね。人にはいくらでもあーだこーだ言えるのに。
— tenbin-girl (@tenbingirl) 2016年10月13日
2室Keのなせる技かしら。
誰も傷つけないためにさっさと解脱したいのだけどむりぽ。
— tenbin-girl (@tenbingirl) 2016年8月24日
スヌーピーーー!!
誰かが言ってたと思って探したらやっぱり彼だったのですが、下記の記事はそうだよなぁ、、という感じで読みました。
ではでは「誰かを傷つけるかもと思っていたら何も喋られなくなる」なら? 僕の見解はYESです。誰かを傷つけるかもと考えるなら何も喋らないのが一番の正解です。誰も傷つけないためには喋らなければいい。そもそも誰もお前に喋ってくれなんて頼んでない。お前が勝手に喋りたいから喋っているだけじゃないか。「喋ることでそれが誰かの役に立つかもしれない、傷つけてしまうこともあるかもしれないが、それだけじゃない」みたいな安い使命感はやめましょう、自分で喋りたいから勝手に喋っててそこに生まれる自分の咎を正当化しようとしてはいけない。根本的にお前はお前のワガママで喋り続けているに過ぎないのだ。
そうなんです。だから最近加わった座右の銘は、「沈黙は金」。 喋って誰かを傷つけるくらいなら、もう自分黙ってた方がいっか、、、。