かさぶたはがすの待てない

治りかけの傷も、もうそろそろいけるかな?ってすぐ皮をひんむいてしまう。
違和感があるのが嫌なのだ。あと1日、あと2日、待ってからはがした方が、多分さっさと治るのに。
中途半端な状態で剥がして、また新たなかさぶた(ないし、治りかけの、なんか皮膚のぴらぴら)ができて、っていうのを繰り返している気がする。わかっちゃいるけどやめられない、というやつなんだろうか。

 

かさぶたに限らず、時間を置いた方がいいことは、多々ある。
”何もしないをする”、じゃないけれど(そんなキャッチコピーあったよね?昔)、ただひたすら待つとか、耐えるとか、堪えるとか。アクションを起こさないことで物事がうまいことまとまっていったり、状況が変わっていったりすることは、実際ある。
それは成人して社会人になって、かなり経ってから、何となく理解はできたし実践しようと試みたりもしているけれど、それが性に合っている人と合わない人はいると思う。得意不得意というのか。そして多分私は後者。

 

性に合っていないからしません、というのもよろしくないとは社会人としてわかっているし、TPOがある。時と場所と場合によって、切る札を選ぶべきなのは当然だ。ただ、自分が切りがちな札の傾向は認識しておいた方がいいと思っている(表現が適切なのかわからないけど言いたいことがわかればいいや)。

かつてうまくいったからといって、同じようなケースでうまくいくとも限らない。完全に同じケースは、どこにも存在しないから。

 

何かをするにしても何もしないをするにしても、どちらが良かったなんて結果論でしかない。終わりよければ全てよい、ことがほとんどでしょう、社会では。

何かをする/しないを決める時に、仮説を立てることが必要なのは言わずもがな。
でもPDCA回すったって、相手が人間である限り、また我々が不可逆の世界に存在している限り、どうしても毎回前提条件が微妙に異なるわけで、科学の実験みたいに簡単にはいかないなぁ、と歯がゆくも思う(実験だって簡単にはいかないのだろうけど)。

 

最近、というか前からだけど、タイトル付けるの下手過ぎて我ながら困惑している。というのも自分の思考の流れが、最初にふと思ったところからどんどん連想ゲームみたいに飛躍していってしまって、導入と主題がずれてくる。んだけど、タイトルは導入の導入みたいなノリでつけるから、主題とタイトルがずれるという必然。

 

かさぶたくん (かがくのとも絵本)

かさぶたくん (かがくのとも絵本)