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色々あるけど全部必要なことっていう思考法いいよ

1月が間もなく終わろうとしててびっくりしてます。今年は更新多くなるかもと思っていたのに、いや実際下書きはたくさん溜まっているのだけど、最後までまとめる気力と時間がなかった、という言い訳。

色々あるけどそれ全部必要なこと

さて、31年ほど生きてますと、まぁそれなりに色々ありますね。いや長さじゃないのかもしれない。積極的に生きてるかどうかとか、感受性の問題かもしれないけど。

色々あるけど、でもそれ「全部必要なこと」と思うと、結構良い状態に感情を保てる感覚がありまして、最近意識して「全部必要なこと」って呪文のように唱えてます。

例えば仕事で理不尽だナーと思った時とか。ミスしてしまった時とか。遠回りしてしまった時とか。そのように、一般的にはマイナスと思われる時に呪文唱えることが多いですが、実際はプラスマイナス/ポジティブネガティブ関係なく、どんなことも「全部必要なこと」なんだと思います。

https://www.instagram.com/p/BAeqbCCOtYw/

歩いてると前向きホルモン放出されてすっきりする。色々あってもそれは全部必要なこと。冷たい空気が気持ち良い〜#夜景 #nightview #東京 #TOKYO #日本 #JAPAN

原因論と目的論と補完論

この思考法について色々思いを巡らせていると、原因論(フロイトユング)と目的論(アドラー)が思い出されました。

アドラー心理学の目的論とは『行動や感情は、目的のために創りだされる』という理論です。

目的論と反対の理論に原因論というものもあります。

原因論は『行動や感情は、過去の体験から生み出される』という理論です。

 【アドラー心理学】目的論は解決を導く | ここらぼ心理相談

※私は心理学が専門でなく、改めて目的論・原因論をぐぐってみたのですが、これはトラウマだったりうつ病だったり、何らかの心理的障害(と思われているもの)を取り除くための方法論(の元になる考え方)だったのですね。知らなかった。

ameblo.jp

 私はカルマの法則や、原因と結果の法則を信じています。為したことは返ってくる。起きたことには全て原因がある。

こう書くと、原因論者な感じもしますが、まぁそうなんですけど、アドラーごり押しの目的論も前向きだししっくりくるな、と理解できるところではあります。

だけど、「全部必要なこと論」(=補完論と名付けてみた)で考えると、なんと問題が問題でなくなるという事態になりました。

リンク先での例えで考えてみると、

車に乗れなくなったAさんがいます。

Aさんは、交通事故にあって、車に乗るのが怖くなって、車に乗れなくなりました。

Aさんの車に乗れない理由を原因論と目的論で考えてみましょう。

原因論:「Aさんは交通事故にあったから、車に乗れなくなった」
目的論:「Aさんは車に乗るのが怖くて乗りたくないから、車に乗れなくなった」
車に乗れなくなった理由が「過去の原因」か「本人の目的か」という違いがありますね。

これに対して、補完論では「Aさんは車に乗れなくなる必要があったから、車に乗れなくなった」となります。車に乗れなくなった理由が、「過去の原因」か「本人の目的」か「宿命」なのかわからないけども、「とにかくその必要があった」というもの。

だから、「何の問題があるの?(問題ではないのだよ、だって必要があったからそれが生じているのだ)」という姿勢です。つまり問題が問題ではなくなっている。

ちなみに、なんで「補完論」なのかというと、それが起きることによって完結する、みたいなイメージだからです。欠けたピースがはまっていくイメージ。

補完論は「全て受け入れる」

「全部必要なこと」と心の底から信じることは、それこそカルマの法則や、この世界の生命システム的な、よくわからないけどいわゆるサムシンググレート的なものを全面的に信じてそれらを受け入れる、ということになると思うのですけど、私は別にスピリチュアルに傾倒しているわけでも、現世の自己啓発に傾倒しているわけでもありません。

例えば風邪を引いたら熱が出たり鼻水が出たりして、わたしたちはそれがうっとおしいと思いがちだけど、でもそれは人間の身体に備わっているシステムであり、自然であり必要なことです。自浄作用とでもいうのでしょうか。

少し前に書いた涙とかも。自律神経整えるために出てる説。

tenbin-girl.hatenablog.com

あと例えば肥満とかもね、身体の持ち主がばかすか糖質を摂って、糖質の行き場がなくなってしまったから、身体が脂肪に貯めこんだという話で、必要だから起きてるということになりますよね。

イメージ的には食物連鎖もそれに近くて、弱肉強食のピラミッドのうち、どこかの層が増えたり減ったりしても、その上下の層も増えたり減ったりを繰り返していずれ丁度いいバランスに落ち着くっていう、ああいうやつ。きっと地球でも、増えすぎた人間に対して、自浄作用が働く時が来るのだと思う。

カルマの法則も同じようなニュアンスで、それがいつ起こるのかはわからないけれど、自分の蒔いた種を刈り取る時が必ずくると思うんです。というか、刈り取らなければ永遠にその「行為(カルマ)」は実を結ばないというのかな。

まぁ何が言いたいのかというと、この世の色んなところに「神の見えざる手」が存在していて、サムシンググレートによって全て起こされている、そう全て当たり前のことなのだ、そういうシステムなのだ、だから受け入れた方が楽ぞよ、ということです。

「諦める」ことの前向きさ 

で、そう考えていくと、それはある意味「諦め」に似た響きともとれるかもしれないのだけど、実際そうだと思います。私は「諦める」という言葉が好きなのです。私からみると諦めるという言葉には、マイナスなイメージがなく、とてつもなく前向きで、解決に向かっていく印象しかない。仏教徒(宗派なし)だからかも。

私に起きた(一見残念と思われる)この出来事は、今の私にとって必要な事だったのだ。だから起きたのだ。だとしたら、起きてよかった(むしろ起きて当たり前)と思うしかないじゃない、と。それを踏まえて次どうするか考えるしかないじゃない、と。そのような思考回路に、なり、、ませんかね。

過去にも引用したことがあると思いますが、諦めるとは元々仏教用語です。

「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。

 諦める | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学

だから、諦めるということは、感情的にはできないことのはずなんです。というか、感情的に諦めているんだとしたらそれはただの「ふて腐れ」だったり「投げやり」だったり「怠慢」だと思うんです。本来の意味での諦めというのは、とても論理的で筋道立った明確なプロセスのはずなので。 

改めて周りを見渡して

うむ、全部必要なこと。必要なことしか起きてない。本日も神の手采配完璧。

 

編集後記

既述の通り、原因論・目的論その他云々...は全て、何らかの問題を解決するために導き出されている考え方であって、セラピーの現場では実際に苦しい思いをしている人たちがいて、それらの問題・症状をなくしたいと闘っているのだと思います。

だから簡単なことは言えないし、その現場にこの考えが適用できるとも思わない(当たり前や)。のだけど、一般的な健康人にとって、なかなか有効ではないかなーなんて。

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)

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