前置き:諸事情によりこちらのブログは一時的に非公開にしてたのですが、やっぱり自分にとって大事な場なので再開することにしました。元々更新頻度は低めですが。まー色々思うところありますけど、今は一旦飲み込みます。
で、掲題の件です。
前編の嫌われる勇気も自分にとってなかなかヒットしまして(でも感想書いたの随分遅かったのね。ていうかもはや感想じゃないような...)、
今回続きが出るって知って、発売前から楽しみにしていたのだけど、青本を人に貸してて、それ読み直してから読もうって思ってたのに全然返ってこなさそうなので我慢できずに読みました。
日曜夜にバーッと読んで、この数日ハイライトを読み返して、心に残ったこと思ったことを書き連ねよう、、、(一般的なレビューはAmazonにたくさんあるだろうから、自分目線で)と思ったのですが、やっぱり今の自分に一番大事なところ、一番刺さったところだけ書きます。読み返してて、熱くなってしまって。
今後、また折を見て別のことも書けたらなと思いますが。
他者の心で感じる
今回の続編は、実際にアドラー心理学を日々実践していくために具体的にどうしたらいいかについて書いてあるのだけど、アドラーが大事と言ってる「共同体感覚」ていうものがありまして、それをつかむ(元々備わっているものなので、「掘り起こす」というニュアンスが正しいらしいが)ための第一歩として「他者に関心を寄せること」っていう主張がありました。
私はそもそもアドラーの提言する、人生の目的(?)は愛だ(ここは深い話なのでぜひ本で読んでください)、とは思ってないのだけど、共感できる人間になりたいとは常々思っていまして。それはきっと純粋な気持ちからばかりではなくて、どちらかというとこの世の全てのことを知りたいっていう欲求からくる方が強いかもしれないのですが。。
アドラー(ていうか本の中の哲人)いわく、
世間一般で考えられている共感、つまり相手の意見に「わたしも同じ気持ちだ」と同意することは、たんなる同調であって、共感ではありません。共感とは、他者に寄り添うときの技術であり、態度なのです。
とのこと。
そして共感について、
われわれに必要なのは、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」だ
あなたはいま、自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の心で感じようとしている。
まずは、「もしわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える。そうすれば、「きっと自分も、この人と同じような課題に直面するだろう」と理解できるはずだ。さらにそこから、「きっと自分も、この人と同じようなやり方で対応するだろう」と想像することができるはずだ、と。
と書いてます。
もうここが刺さって刺さって。刺さりすぎて苦しい。
というのも前から会社の先輩にこれが私の課題だと言われていたから。私は人の立場に立って考えられない人間だと。実際これはすごくよくわかる。私はどうしても、相手の心で感じることが苦手で。「自分ならこう思う」「自分ならこうする」「(私の思考を通して考えた)相手ならこうする(と思う)」。自我が強すぎるのか、頭が固いのか、他人に厳しいのかわからないけど。
世界が変わる
でも、自分含め多くの人が、少しずつでもこういう考え方を自然にできるようになったら、大げさでなく、多分世界は大きく変わる、気がする。
ここで書いた「事情をふまえる」感覚も近い気がしているのだけど、
相手の心で感じて、相手に共感することができたら、怒りとか軽蔑とか排斥とかの感情は出てこないはずなんですよね。そしてそういう感情から生まれる対立もなくなる。
これ常々私が大事にしたいと思っている考えでもあるのだけど、罪を憎んで人を憎まずという言葉がありまして。
ここで書いてる「事情もあったのだろうから」という表現はなんだかチープというか普通すぎるのですが(自分も使っててアレなんですが)、
結局罪だったり、世間的に問題とされる言動なりなんなりというのは、その人1人で成されるものではないでしょ、と思っていまして。両親から受け継いだ元々の素養、育ってきた環境や出会ってきた人たち、起きた出来事、出来事の受け止め方、、色々なことが積み重なって、積もり積もって、、、1つの形として出ただけで。
まさに哲人の言葉をお借りするのがドンピシャだと思う。
たとえば、まったく勉強しようとしない生徒がいる。ここで「なぜ勉強しないんだ」と問いただすのは、いっさいの尊敬を欠いた態度です。そうではなく、まずは「もしも自分が彼と同じ心を持ち、同じ人生を持っていたら?」と考える。つまり、自分が彼と同じ年齢で、彼と同じ家庭に暮らし、彼と同じ仲間に囲まれ、彼と同じ興味や関心を持っていたらと考える。そうすれば、「その自分」が、勉強という課題を前にどのような態度をとるか、なぜ勉強を拒絶するのか想像できるはずです。
もうこれが全てなんじゃないかと。
壁をなくす
わたしが今犯罪者たり得ないのは、たまたまそういう環境に置かれていただけであって(もちろん自助努力によるところもありますが)、何かと何かの掛け合わせによっては、わたしだって犯罪者になる可能性も十分あるわけで、本質的な違いなんて本当はそんなにないはずで。
別に犯罪だけじゃなくて、文化や価値観や宗教、自分が今生たまたま身に付けてきたそれらと、違うものを身に付けている誰かとの壁が、どんどん低くなっていったらそれはきっとアドラーの目指す理想の世界に近づくことなのだと思うし、私も目指したい境地。(アドラーのゴール?答え?には既述の通りピンときてないのですが)
とまぁ、こうしてPCに向かっていると冷静に色々思えるのだけど、まだまだ自分も瞬間的に反発してしまうことがたくさんあるから、 もっと日々意識してトレーニングしないといけないなー、と反省した次第です。
主観からは逃れられないけど
そもそも人間は主観的な生き物だし、100%相手のことがわかるはずがない。あなたのこと100%わかっているなんていう人がいたらそれはスピリチュアル系か傲慢か詐欺師か守護霊か。
本の中の哲人もそれはわかっていて、
たしかに、わたしたちは主観から逃れることはできません。そして当然、他者になることもできない。でも、他者の目に映るものを想像し、耳に聞こえる音を想像することはできます。
て言ってます。
わたしは一生、わたしの主観からは逃れられないのだけど、全力で相手のことを想像して相手に寄り添うことはできる。ようになる。練習すれば。努力すれば。
共感は技術であり、態度。
そして技術である限り、あなたにも身につけることができます。
距離をおいて眺めているだけではいけない。自らが飛び込まなければならない。飛び込むことをしないあなたは、高いところに立って「それは無理だ」「これだけの壁がある」と批評しているだけです。
できるからやる、ではなくて、やるからできる、精神で頑張ります。
占星術の洋書をお安くお譲り頂いたので頑張って読む。英語はツールなのに使いこなせない自分が情けない(´・_・`)
— tenbin-girl (@tenbingirl) 2016年3月12日
できるからやるではなくやるからできる精神バンザイ。#占星術 #インド占星術… https://t.co/i2D7siGDrl