久しぶりに豆乳を飲んだ。紀文の梨味。
(豆乳が久しぶりな理由はこちら)
めっちゃ梨だった。あ、わかるわかる、梨ね。っていう感じ。
ちゃんと果汁が入っている。
そしてこれ飲みながら、人の味覚の曖昧さ・不思議さについて思いを馳せました。よく思い馳せます。
わたしは別にグルメでもなく、同じもの毎日食べ続けても大丈夫だし、別段味覚にこだわりがあるわけでないですが、小さい頃から
●みかんに海苔まいて醤油つけて食べると「いくら」
●プリンに醤油かけると「うに」
●麦茶に牛乳(又は豆乳)で「コーヒー牛乳」
とかそういうのが好きで、オーマイコンブの多分1巻か2巻だけ家にあって(多分誰かから借りパクしてたのだけど)、これに出てきたやつは大抵試してました。
※オーマイコンブって、原作秋元康さんだったんですね、軽い驚き。多才ですなぁ。
そして大人(?)になった後に、そういう研究をしている人がいるんだと知りました。
こういうのを見ると、本当に人の五感というものは曖昧なものだなぁとしみじみ。
花粉症で鼻つまってると、味も全然わからなくなるし、てことは嗅覚も含めての味覚だから、果たして今自分が味わってるこの味が、本来それが持ってるものと同じなのか、はたまた最大限引き出せているのかどうかって、わからなくなりますよね。
最大限引き出してても、今度それが記憶と結びついちゃったりすると、それはそれで正しく判断できないこともあるんだろうなとか。
そこに触覚とか入ってきちゃうと(口に入れた場合は、触覚は味覚に統合されるのかな?)なんかそれはもう、口に入れた瞬間から、その食品が本来持っているだろう絶対的な味っていうのは、そのいち個人しか味わえない「わたし専用の味」でしかなくなるような、ミシュランだろうがコンビニだろうが関係ねぇ、みたいなことになるなと思いました。
でも実際そうですよね、あなたの感じてる納豆の味は、わたしは絶対に完璧に同じ味を味わえない。で、それって、視覚とか聴覚とかにもいえることで、同じ景色を見ていても、全く同じようには見えていないし、一般的には見えないものが見えてしまう人もいるし(視覚は比較的わかりやすいですよね、視力という尺度もあるし、色盲もメジャーな特徴だと思うし)、聴覚だってモスキート音とかあるし。
そう考えていくと、やっぱりこの世界を考える時は主観主義がしっくり来るなぁと、池の水の音はそこに自分がいるから鳴るのであって、認識する主体がいて初めて「音が鳴る」のであって、月は自分が見て初めてそこに固定されるのであって、認識する主体がいて初めてその場所に存在するという、これは禅問答みたいな量子論の話ですけど、
とはいいつつ、自分が存在しようがしまいが水の音は鳴ってるし、月は地球を回ってるし、ついでに地球も回ってるし、太陽系は終わりに向かって存在してるし、っていう客観主義とのせめぎ合い。
余談ですが、紀文の豆乳・バニラアイスも以前飲んだことがあるのだけど、普通の調整豆乳と、成分表記が全く同じでした(画像はないけど)。でも味は確かにバニラっぽいのです。
てことは完全に「香料」だけで味変えてるやん、てね。なんかちょっと残念だったね。